「大切な人を失った時に─グリーフをめぐって─」(後編)
『オプションB』から
(前号から続く)前号では、大切な人を亡くした時の悲嘆(グリーフ)について、心理学者たちが「回復」までの「段階」を唱えていることを話しました。
それに対し、個人差は大きいとか、段階を踏まないと回復しないのは受け身過ぎるといった批判もなされています。
例えば、フェイスブック社の社長で、最愛の夫四七歳を急死で失ったシェリル・サンドバーグは、回復に向けて日記を付け始めましたが(ジャーナリング)、五ヶ月経って、宣言します。
「これが最後の日記への最後の書き込みになる。人生で一番長い22週間半、156日が過ぎた。もっと前へ、上へ進もうと、自分を駆り立てている。そしてそのしるしとして、ジャーナリングをやめる。もう大丈夫だと思う。」(『オプションB』103頁。本の終盤には、新しい恋人の話も出て来ます)。
まさに個人差というか、すごい回復力…しかし、それが可能だったのは、以下の条件があるのではないでしょうか。
- ① 死別で一人残された訳ではなく、子供がいる。
- ② 自分と亡夫双方の親兄弟の支援がある。
- ③ 夫の死は皆知っており、職場の理解も最大限得られる(創業者マーク・ザッカーバーグも彼女を気遣う)。
- ④ 経済的には不自由していないし、カウンセラーやセラピストも雇い放題?
④はともかく、①~③は、ことLGBTQのグリーフ環境と比較すると隔絶の差かも?(勿論、彼女も自身の恵まれた立場に自覚的ですが)
「レジリエンス(回復)」の条件とは?
この『オプションB』には、「配偶者を亡くした人の半数以上が、六ヶ月後には心理学者が「鋭い悲嘆」と呼ぶ段階を脱しているという。悲嘆はありのままに受け止めなければならないが、どれだけ早く虚空を通り抜けられるか、自分の信念と行動次第でコントロールできる」という記述があります。脚注でその出典(「半数以上が六ヶ月後には」の)を調べてみたら、ジョージ・A・ボナーノ『リジリエンス―喪失と悲嘆についての新たな視点』でした。
彼も、前述の古典的な段階理論を、「悲嘆はすべての人にとって同じではなく、誰もが経験しなければならない特定の段階などはない」と批判し、むしろ、ほとんどの人に、リジリエンス(レジリエンス=回復力)があると述べています。「悲嘆反応の一般的な三つのパターン」のグラフ(図1)も紹介され、悲嘆をひきずる「慢性的悲嘆」、死別直後から症状に乏しい「リジリエンス」、その中間の「回復」の三つが描かれています。
では、それらを分かつものは、何なのか、そこはあまり述べられていなくて(「私の一部を失ってしまったみたいだ」と言う人は回復していくが、「すべてが失われたようだ」と、アイデンティティの喪失がより深刻な人は遷延性悲嘆になる(128頁)という程度)、それでは「レジリエンス」とは、「自助(強者)」の発想にならないか、と、ぼやきたくもなりました(渦中の当事者として)。「回復」のための条件や支援の資源をめぐって、つらつらと考えています。(T・O)
「長谷川博史さんメモリアルサイト」
2022年3月7日に亡くなられたJaNP+創設者の長谷川博史さんについて、追悼メッセージや思い出エピソードが集まり、メモリアルサイトが立ち上がりました。長谷川さんを偲ぶ多くの声を読むことができます。
「宇佐美翔子さんのお別れ会」
同性での婚姻届けを提出、セクマイでも故郷を帰れる街にと青森レインボーパレードを始め、性暴力の問題についても無視されがちな性的マイノリティのケースを提起など、マイノリティの中でもより困難な状況への視点を大事にし改善のために奔走なさり、昨年お亡くなりになった宇佐美翔子さんのお別れ会に参加してきました。
会場は新宿2丁目のクラブ。普段からセクマイのナイトライフを盛り上げている場所。お別れ会とはいえいくつもの音楽ライブやDJタイムもあり、それぞれの演者が翔子さんとの思い出も語り、バーカウンターでお酒と共に久々に会った人たちが語らう賑やかな場は翔子さんが沢山の人に慕われ人々を繋げてきたことを現わしているかのようでした。
私はパフォーマーとしても参加していた為、楽屋にいる時間が多かったのですが、翔子さんが語る思い出やパレードについての声も流れていました。翔子さんの写真や思い出を書き込めるノートもあり、お別れとしての設えもありつつ、私にとっては翔子さんの思いや活動、思い出は生き続けてくれる、豪快な笑い声や「だいじょうぶ!」の暖かな声は消えることがないと安心させてくれる時間と空間でありました。(げいまきまき)
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