追っかけエイズ
我が国初のHIV臨時検査イベント
『SWITCH』を20年後に振り返ってみると…
『SWITCH』のコーディネータを務めた市橋恵子さんに話をうかがいました。
塩野:今回はMASH大阪が2000~02年に実施した検査イベント『SWITCH』を軸に話をしたい。行政・当事者ボランティア・研究者・医療専門職者の四つのセクターが協働して取り組んだ、初めてのHIV検査イベントだったわけですが、検査を受けた人が三年間で千名ぐらい、HIV・B型肝炎・梅毒の陽性率いずれも高く、いろんな意味で画期的なイベントでした。イベントのきっかけは?
鬼塚:市橋さんと私がエイズのボランティア活動を始めるのが1992年。京都では、友人でもあり現代アートのアーティストだった古橋悌二がHIVエイズ患者だとカミングアウトして、私を含め、彼の周りにいた人たちが「エイズ・ポスター・プロジェクト(APP)」というネットワークのもとで一斉にボランティアの活動を始めた。
市橋:当時私は看護学校の教員をしていて、エイズという病を学生にどう伝えるか、模索していました。HIVと人権・情報センターでボランティアとして活動するなかで大阪府健康増進課の原田さん、森岡さんらと知り合い、保健所の人たち、HIV診療にかかわるドクターや看護師さんたちを巻き込んで「大阪PWAヘルスケア研究会」が立ち上がり、ネットワークができていった。鬼塚さんを通じて、京都の活動ともリンクしました。
鬼塚:1998年にMASH大阪が立ち上がり、翌年にベースライン調査を堂山のクラブEXPLOSIONで行い、2000年には当時スタッフの松原新から『SWITCH』が提案される。疫学研究者の市川先生と市橋さんに相談したところ「ぜひやろう!」ということに。
市橋:条件が揃っていたんです。まず、薬害裁判の結果、ブロック拠点病院体制が整備された。次に、薬剤の進歩で患者さんたちの生活の質がぐんと高くなった。つまり、予防に皆の意識が向き始めた時期だった。医療関係者にとってみれば患者のほとんどは血友病の人かゲイ。ゲイコミュニティに予防を働きかけたいが、クローズドな時代、どうすればよいか見当がつかない。そんなところへMASH大阪から検査イベントの企画が提示される。ネットワークを通じて専門職ボランティアを募集したところ、コワイくらい多くの人たちが応じてきました。あと、ベースライン調査で予防のニーズが示されたのも大きかった。専門職ボランティアとそうでない一般のボランティアとの棲み分けも課題で、随分と議論しましたが今となってはいい思い出ですね。
塩野:行政の役割は?
鬼塚:大阪府がMASH大阪のエイズ予防活動を地域の健康課題への取組みとして位置づけた点。もうひとつは検査イベントを曽根崎の大国診療所(現・そねざき古林診療所)の巡回診療とする手続き。これは大阪市の協力でできました。大国先生とのネットワークは、後のクリニック検査キャンペーンにもつながっていきます。
塩野:今の時点で評価すると?
市橋:祭りの一環で気楽に参加でき、検査をサクサク受けてもらう体制をつくった点、ですね。
鬼塚:『SWITCH』を通してコミュニティの信頼を得たところ。「MASHさん、本気なんや!」みたいな。
塩野:どうもありがとうございました。
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